☆令和6年5月研修会
『宇陀・櫻井の古刹・古社を訪れる』
今回は、南大和における女高野野室生寺・天武天皇ゆかりの長谷寺・三輪山を神体とする大神神社を訪問します。
大神神社
三輪山は奈良盆地の中でもひときわ形の整った円錐形の山であり、古来、神が鎮まる神体山として信仰されてきた。三輪山を神体とする大神神社は本殿を持たない。山麓にある拝殿、奥の三ツ鳥居を通して三輪山を遥拝する。山中には神霊が鎮まる岩が点在し、磐座と呼ばれて信仰の対象となっている。頂上の磐座に大物主大神、中腹の磐座には大己貴神、麓の磐座には少彦名神が鎮まるとされている。
三輪山祭祀は弥生時代までは自然神「山の神」を祀るものであったが、ヤマト政権が成立すると、三輪氏の祖先神「大物主神」を祀り国家祭祀を行うようになった。奈良時代には神仏習合が始まり、中世には三輪神道が形成された。
『日本書紀』によると、大物主神は大国主神の幸魂・奇魂であり、出雲の神である。大神神社の境内には、大物主の荒魂を祀る狭井神社や、三輪山祭祀を職掌としてきた大神氏の祖・大田田根子命を祭神とする大直禰子神社(若宮社)がある。
出雲の神・大物主がどうして三輪山に祀られているのか、三輪氏(大神氏)はどのような氏族だったのかについてみて。
室生寺
室生山の麓に立つ室生寺は、仏教の一派である真言宗の室生寺派の総本山である。この地域は古代の時代から霊的な場所として知られており、人々は龍神と呼ばれる神を信仰していた。龍神は山の洞窟に住んでいると信じられていた。干ばつの時、天皇は使いの者を派遣して、神に対する雨乞いの祈祷をさせた。室生寺が創設されると、ここが龍神信仰の場となった。寺の歴史は、8世紀の後半に病気に苦しむ山部親王(後の桓武天皇、737~806年)のための祈祷の儀式がここで行われたことを起源としている。天皇の命令により、興福寺の高僧であった賢璟(705~793年)が最初
の建物をつくり、その弟子の修円(771~835年)がいくつかの建物を付け加えた。
室生寺は女性の信仰のための場所として有名である。女性は高野山の主な真言宗の寺院に入ることが禁じられているが、室生寺は女性を受け入れたため、鎌倉時代(1185~1333年)から「女人高野」として知られている。今日でも、この寺の参拝客の8割を女性が占めている。室生寺には十一面観音像や釈迦如来像、金堂、五重塔など、数多くの国宝がある。
長谷寺
当山は山号を豊山(ぶさん)と称し、寺号を長谷寺(はせでら)と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。
朱鳥元年(六八六)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち神亀四年(七二七)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩をお造りになられました。
徳道上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳(だいとく)であり、それ故に当山は三十三所の根本霊場と呼ばれてきました。
現在の長谷寺は、真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の総本山として、また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、多くの人々の信仰をあつめています。
記
日時 令和6年5月26日(日曜日)
集合 イオン金山店前 午前7時50分集合
会費 会員、ビジター共に 9,500円 (新規会員募集キャンペーン中)
申し込み方法
< >下記申込書で事務局に事前に手渡し ② はがき・メール・FAXで申し込み
送付先 しんあいち歴史研究会事務局 山本 まで
メールアドレス kyoko.y.summer@gmail.com
締め切り令和6年5月16日準備の都合上10日前での締め切りとさせていただきます。
☆ 自己都合により当日取りやめた場合は、後日2,000円を申し受けますのでご了承願います。
☆令和6年6月研修会
「三ヶ日周辺の異なる3ヵ寺庭園などの奥山・方広寺(半僧坊)を訪ねる
今回のテーマは、比較的近場の浜名湖の北側にある三ケ日周辺の趣の異なる3カ寺の庭園を巡り、併せて仏像などを鑑賞し歴史を学ぶとしました。
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摩訶耶寺まかやじの鎌倉初期(1240年頃)に作庭された石組み庭園と及び本堂天井の極彩色の花鳥図&仏像。
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大福寺…室町時代築庭の浄土庭を元禄時代の茶人・山田宗徧やまだそうへんがこの庭を愛して手を加えたという池泉式回遊[現在は回遊できない]庭園&多数の文化財を有する宝物殿「聚古館」。
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浜松の伊勢神宮といわれる濱名惣社神明宮。
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細江長楽寺の庭…紅葉の頃が最も華やかだと
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『満天星(どうだんツツジ)の庭』
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臨済宗の大本山方広寺=別称奥山半僧坊などを訪ねます。
記
1.研 修 日 :令和6年6月23日(日)
2.集合場所:金山総合駅 イオン金山店前 午前7時50分集合•出発
3.參参加費:会員,ビジター共9,500円
4.申込方法:①事前に事務局に手渡し
②事前にハガキ,メールで申込み
送付先 甲446-0044 愛知県安城市百石町2-19-7
山本京子 気付 しんあいち歴史研究会事務局
メールアドレス:kyoko, y. summer@gmail. com
5.締 切: 令和6年6月13日(木)
☆ バスの座席が定員になり次第,締め切りとさせていただきます。
☆ 自己都合により当日取りやめた場合,後日2,000円を申し受けますので, ご了承ください。
☆令和6年7月学習会
「壬申の乱:歴史の流れの中の位置付けと戦いの詳細」
672年6月に勃発し9月に終結した壬申の乱は、天智天皇の没後、天智天皇の寵児・大友皇子と天智天皇の弟とされる大海人皇子(天武天皇)との間に起こった皇位継承を巡っての戦いです。単純に戦いの原因はそれのみと理解されている方が多いのではないでしょうか。当時の唐帝国の情勢や朝鮮半島・新羅の情勢を併せてみると、別の見方があるのではないでしょうか。
また、『日本書紀』天武天皇紀(上巻)に記された戦いの様子を詳しく調べると、いくつかの疑問や曖昧な点が浮かんできます。それらを改めて追求すると何が見えてくるでしょうか。
壬申の乱について、以上述べた視点から改めて深堀りし、参加して頂いた皆様と一緒に考察してみようと思います。
この時代、中国は唐帝国が治めていました。第3代皇帝の高宗の時代です。病弱の高宗は、女傑の皇后武則天に実権を握られ、皇后武則天の垂簾政治を許していました。武則天は後に自ら皇帝の地位に就いて国号を周に換えて権勢を振るいます。
唐帝国は668年に高句麗を滅ぼし、共に戦った新羅を含めた朝鮮半島全体を傘下に置いて羈縻支配を進めます。この時点において、唐帝国は西の西突厥、北の東突厥、そして朝鮮半島全域の広大なユーラシア大陸を支配下に置いた大帝国を造り上げました。
しかし、壬申の乱の時点に近づくと、西域の吐蕃(チベット)が力を付けて唐帝国と西域の覇権を争うようになります。また、朝鮮半島では、新羅が、旧百済領に兵を進めて併合し、唐軍と戦争状態になります。
このような中で日本では壬申の乱が起きます。ここに述べた国際情勢と壬申の乱はどのように関わっているのでしょうか。それについて考えます。
また、『日本書紀』天武天皇(上巻)には、壬申の乱の戦いの経過が詳しく記されています。ご存じのように、最後は大海人皇子の軍が、近江朝の大友皇子の軍を破って、大友皇子を自殺に追い込み、大海人皇子の軍が勝利しますが、その勝利の決定的な要因はあまりはっきりしていません。それについても考えたいと思っています。
夏の暑いひとときを涼しい室内で、古代に起こった大事変である「壬申の乱」について熱く語ってみたいと思います。多くの皆様のご参加をお願いします。
1.開催日 令和6年(2024年)7月28日(日)
2.場 所 名古屋市中区金山1丁目5番1号
日本特殊陶業市民会館 2F 第1会議室
3.時 間 午前9時05分 開場
午前9時15分 開演 午前11時55分 終了
4.会 費 会員500円 ビジター500円
5.申込方法 ①事前に事務局に申込書の手渡し
②事前にハガキ、メールで申し込み
送付先 〒446-0044 安城市百石超2-19-7
山本 京子 気付 しんあいち歴史研究会事務局
メールアドレス kyoko.y.summer@gmail.com
6.締切 資料印刷の関係上開催日の一週間前とさせていただきます。